『新幹線大爆破』は、国鉄に断られたから「映画の中に新幹線を作った」
本作の企画で、東映が国鉄へ最初に示した題名は『新幹線爆破魔を追え!』でした。坂上順プロデューサーの案は爆破より犯人捜査を前へ出し、1975年初頭に脚本を示して協力を求めたのです。第2稿では『大捜査網』へ変え、鉄道公安側の活躍も強めましたが、正式な撮影協力は得られませんでした。[1][2]
新幹線では1967年、客席の本からダイナマイトと発火装置が見つかる爆破未遂事件が起き、企画当時も爆破予告が社会問題になっていました。博多延伸を控えた国鉄には、模倣や社会不安への警戒がありました(そりゃ協力拒否もしますよね)。車両と施設を使う計画は崩れ、2月末予定の撮影開始も約2か月遅れます。東映は美術と特撮で再現する方針へ切り替え、最終題名を『新幹線大爆破』にしました。[1][2]
・指令所は見学し、客車は納入業者から部品を集めた
一般客が入れない新幹線総合指令所をどう再現するか。東映の社史に収められた美術担当・中村修一郎の回想では、外国の鉄道関係者が視察する形を整え、外国人俳優2人、中村、助手の4人で見学しました。俳優が英語で職員と話す間に内部を撮ったそうです。[2]
宇津井健演じる倉持運転指令長の舞台を作る一方、美術部は実際の納入業者を調べ、座席や備品、灰皿まで集め、152分にわたって乗客の芝居を支える、見慣れた0系の車内へ近づけていきました。[2]
・模型の低い位置へ、「シュノーケル」を差し込んだ
撮影の飯村雅彦と特殊撮影の小西昌三らは、先端に小さな鏡を持つ細長い光学装置「シュノーケル」を使いました。カメラ本体が入らない模型の低い位置へ、潜望鏡のように差し込めます。浜松付近でのすれ違いや2編成の並走も、この視点で撮影しました。[2][3]
特撮美術の成田亨は、街をすべて立体模型にせず、線路と手前の建物を作り、遠景には現地の建物写真を切り抜いて立て、必要な部分に色を加えました。[2]
車内、指令所、走行場面の完成画面は、この東映公式予告でも見比べられます。[4]
・上映中止の要望にも、東映は応じなかった
国鉄は1975年6月23日、社会へ好ましくない影響を与えるとして、上映中止を求める要望書を東映へ送りました。東映は6月27日、作品はフィクションであり、応じられないと回答します。7月5日の公開へ向け、現場では4班が同時に動き、撮影終了は公開の11日前、映倫審査は5日前でした。[2]
・脚注
- ab吉田伊知郎「『新幹線大爆破』(1975) はいかにして作られたか――企画の成り立ちから上映まで、制作の裏側を徹底解剖(第1回/全3回)」otocoto。坂上順による企画の着想、佐藤純彌による時速80キロの設定、国鉄への協力要請、題名と脚本を変えた再交渉、現実の新幹線爆破未遂事件、撮影開始延期を確認した。記事は『映画時報』『映画情報』、1975年当時の新聞、後年の当事者証言などを資料ごとに示している。(リンク)
- abcdefg吉田伊知郎「『新幹線大爆破』(1975) はいかにして作られたか――企画の成り立ちから上映まで、制作の裏側を徹底解剖(第2回/全3回)」otocoto。国鉄非協力後の制作方針、中村修一郎の指令所見学回想、座席と灰皿の調達、シュノーケル撮影、成田亨の特撮美術、4班撮影、国鉄の上映中止要望と東映の回答を確認した。記事が再掲する本人証言と同時代報道を区別して使用した。(リンク)
- 国立映画アーカイブ「新幹線大爆破」所蔵映画フィルム検索システム。東映東京製作、1975年、152分、監督・佐藤純彌、撮影・飯村雅彦、美術・中村修一郎、特殊撮影・小西昌三など、対象版とスタッフを確認した。(リンク)
- 東映シアターオンライン「【予告編】新幹線大爆破」(2025年3月26日公開)。東映の認証済み公式チャンネルによる1975年版予告。完成画面の補助映像として使用し、制作工程の証明には用いていない。(リンク)